マインドフルネス瞑想の分析

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概要

トップ画は、雑念がわいてしまい、物事に集中できなくなった状態を表現している。この状態を改善する方法としてマインドフルネス瞑想(めいそう)という心のトレーニングが開発された。これは昔から伝わる瞑想の技術を活用しているのだが、なぜ今になって流行し始めたのであろうか?そもそも瞑想とは何であろうか?その詳細について、瞑想の歴史を紐解きながら解き明かしていく。

マインドフルネスが流行した背景

瞑想の科学的な根拠が発見されたことがキッカケなので、その詳細を説明していく。

2005年 アメリカ心理学者サラ・レイザーらによって、マインドフルネス瞑想の実践を継続すると脳の背内側前頭前野(ハイナイソクゼントウゼンヤ)領域の厚みが増すことが報告された。その脳の領域は次のような機能が報告されている⬇️

背内側前頭前野は自分や他人の思考や感情の動きをメタレベルで対象を認知(=メタ認知)する機能がある⬇️図1
図1)脳にある背内側前頭前野

図1)脳にある背内側前頭前野

ここでふだん聞きなれないメタというキーワードが出てきたので、補足していく。

メタ=高次の』を意味示す。
よってメタレベルの認知(= メタ認知)とは対象となるモノを高い所から第三者のように見下ろしている状態である

例えば、社内のプレゼンテーション後、説明のスピードや、声の大きさなど、その時の様子を客観的に振り返る時がある。
この例のように、自分Aをもう1人の自分Bで客観視している状態がメタ認知である。

この心の作用が働く領域が背内側前頭前野である。瞑想をすることで、この領域への血流が増して活性化し、メタ認知力が高まっていくわけだ。

そして次々と研究成果の発表が続き、次の動きが加速していった。

メタ認知機能が活性化する瞑想(めいそう)をビジネスに応用していこう。

その結果、マインドフルネス瞑想という心のトレー二ングが開発されることとなったのだ。

ここまでで、マインドフルネスは西洋において研究成果が報告されてから、約20年の歴史しか経っておらず、比較的新しい分野であることがわかった。ここで興味深い点はその手法は大昔から伝わっており、現代にも活かされていることである。そもそも瞑想とはどのようなものであろうか。それについては古代インダス文明にまで時代を巻き戻すこととなる。
それでは瞑想の歴史的な背景を太古まで遡って探っていこう。

瞑想

発祥の地

およそ4000年以上前、インドのインダス川周辺において、世界四大文明の1つであるインダス文明にまで遡ることとなる。この文明を代表とするモヘンジョ=ダロ遺跡(図のココ)の出土品から、動物のツノを付けた人物が、ヨガの坐法で瞑想をしている姿のようなものが刻まれた印章が発掘されている⬇️図2

図2)モヘンジョ=ダロ遺跡での出土品

図2)モヘンジョ=ダロ遺跡での出土品

この時代にはすでに瞑想が広まっていることがわかり、儀式的な様子にも見受けられる。しかし、この時代の文献は残っておらず、具体的な瞑想の方法や理論は不明であった。

バラモン教の普及

紀元前1000年ごろ、アーリア人がインドに侵攻して、その地の先住民族の宗教と融合してできたバラモン教という宗教が拡大していった。その特徴は次の通りである。

自然現象の背後に色々な神々が宿るという思想

この思想によれば、たくさんの神様が自然に宿っているので、自然に対して敬い、それらを祈る儀式という文化が生まれた。その司祭者であるバラモンは神々と交信できる技術を持つと言われている。例えば、儀式では火を使用するなど呪術的な要素が加わり、聖なるものを供養して願いを叶えるという文化が形成されていった。

バラモン教における神々への祈りの儀式については、ヴェーダ聖典の中でまとめられており、細かい手順や祈りの言葉などが明記されていると言われている。

ウパニシャッド古典でヨガ発見

後にこの聖典に記された儀式の内容を哲学的に解釈してまとめられた古典がウパニシャッドと言われている。
この古典に初めてヨガが記されるようになった。

ヨガについては次項で詳細に説明するが、
その修行には瞑想が含まれているので、ヨガ理論を紐解くことで瞑想の詳細を知ることができることとなる。

ウパニシャッドはバラモン教の聖者が記した古典なので、バラモン教が成立する前の瞑想とは解釈が異なるかもしれない。しかし、4000年以上前の文献は残っていないので、その当時の思想を明確化することはできないことは残念ではあるが、今回はその古典をもとに紐解いていく。

後にバラモン教は時代の流れと共にヒンドゥー教へと変化していき、さらに各宗教において瞑想が修行方法の一つとして取り入れられていく。インダス文明から始まった瞑想は宗教だけでなく、現代ではマインドフルネスにも活用されているのだ。

このように瞑想の歴史を紐解くと、何千年にも及ぶ歴史が今にも繋がっていることがわかったことは驚くべきことだね。

瞑想とは何か

ヨガの修行方法である

瞑想は自分の内側を見つめる行為を意味しており、インダス文明を起源としたヨガの修行方法の1つである。以下にウパニシャッド古典でのヨガ定義を記す。

5つの知覚器官と、一つの思考器官とをかたく執事することをヨガという

ここでの知覚器官とは、目、耳、鼻、口、触である。これらと思考をつなぐことを意味しているので、ヨガは人間の認知心理に対して深く研究された内容であることが伺える。

後のヨガ根本経典であるヨーガスートラでは以下の記載がある。

ヨガは心の作用を止滅すること

心の作用とは何か?
それは悲しみ、苦しみ、喜びといった喜怒哀楽を生み出す思考のことで、この回路を止めることをヨガでは重要とされていることがわかる。

具体的に言うと、
人間には思考を働かせて、この世界を認知する自分Aがいる。瞑想をしていくと自分Aがだんだんと弱まり、単に肉体のみが動いている状態になってくる。

するとその状態を観察する自分Bが現れるようになる。
自分Bは呼吸している自分Aがいるなぁっという風に他人事の第三者の観点から観る(ミル)モノである。

あれ?見ると観るって違うの?と思うかもしれないので補足する。

観る(ミル)とは、ただ見るだけでなく、心の眼でモノの真髄(シンズイ)を捉える状態である。真髄とは最も大事なところを意味する

例えば、あるモノを正面から見ても、その正面しか見えない。しかし心の眼であれば、このモノの背面や内部も捉えれるようになる。この感覚でモノの最も大事なところを捉えるのだ。

これを踏まえると、先ほどの自分Bは自分Aの真髄(シンズイ)を観ている状態である。この自分Bを言い換えると次の通りとなる(正式な言葉だが、略し方はオム独自)

『真髄』を観る、(自分B=『我』)のことを、略して真我(シンガ)と呼ぶ

詳細は後にするが、瞑想はこの真我を目覚めさせることができることを覚えておこう。

瞑想は真我を覚醒させて対象の真髄を観ることで、心の働きを止める手段である

梵我一如(ぼんがいちにょ)とは

ヨガの修行は真我を目覚めさせることであったが、
宗教的な考えが加わり、真我を大いなるものと一体化させる思想が生まれることとなる。

それをウパニシャッド古典から紹介していく。

身の回りに起こる自然現象の根底には共通する力が有り、その大いなるエネルギーをブラフマン(梵)と言う。瞑想は真我(我)を発見する手段であり、ブラフマンへとつなげていくことが目標である。これを達成した状態を梵我一如と呼ぶ

上記のブラフマン(梵)はキーワードなので補足していく。

ブラフマン(梵)は自分にも存在する

古代の人は、大自然という宇宙の中で生きていた。水、空気、動植物を含めた大自然は、生活をする上で欠かせない。この大自然を生み出す根本がブラフマン(梵)と言われている。オムたちの肉体はこのブラフマンのエネルギーを呼吸や食事を通じて取り込むことで形成されているということに気付こう。

では、梵我一如にはどのような効果があるのだろう。それは次の通りである⬇️

ブラフマン(梵)と繋がれば、苦しみからの脱出や、呪術に活用できる

では、このことを1つ1つ補足していこう⬇️
①苦しみの世界から脱出して別世界へ入る
古代インドでは、亡くなると動物や虫といった人間以外の生物に生まれ変わる可能性があり、そのようなサイクルが繰り返される苦しみの世界であると考えられていた。そこから脱出するには宇宙・神々(梵)と真我が一体化することで、その世界から脱出し、高次元(=メタレベルの世界)に存在できると考えられたからだ。

高次元と一体化する手段とは?
瞑想に神仏のモノマネを加えれば良いと言われている。
現代風に言うと、コスプレを想像してほしい。好きな対象のモノマネを徹底的に行う。コスプレしてるときはまるで自分もそのキャラクターになった気分になってテンション上がるやんね。この感覚が高次元にレベルアップしている状態と近いだろう。モノマネ➕瞑想でそれを達成していこう。

②呪術の達成
儀式では、ブラフマン(梵)と繋がることで、その自然神の力をお借りして呪術が行われていたと理解されることとなった。例えば、雨の神さまにアクセスすることで、雨を降らせる能力を得るというようなイメージやな。さらに補足していく。

神々の力を借りるとはどのようなイメージか?
コスプレした人が好きなメンバーのファンクラブに入った状態をイメージをしてほしい。そうすると、メンバーからサイン入りのグッズや生ボイスなどファンにとってはたまらないプレゼントが与えられる。それにより、日頃の精神的な疲れが和らぎ、健康にも良い影響が出てくる。

このように瞑想によって、真我を見つけ、大いなる力(ブラフマン)と繋がれば、苦しみからの脱出や、呪術にも活用されていた歴史があることを覚えておこう。そうすれば、マインドフルネスの理解も深まるからさ。

基本的なやり方

姿勢について

瞑想は呼吸が楽にできるように安定した姿勢をとること

そのためには座布団を敷いて、その上にお尻をのせて座る。こうすることで、骨盤を立てやすくなり、背筋が伸びていく。
さらに足裏を太ももに乗せて蓮華座という座り方をすると、お尻、両膝の3点で体を支えることができて、安定した姿勢がとれることとなる⬇️図3

図3)瞑想の基本姿勢

図3)瞑想の基本姿勢

手は印(イン)という仏像さんに見られるような形で組めば、基本の姿勢が完成だ。次に呼吸の重要性を話していく。

呼吸と心の働き

呼吸と心の動きは連動している。興奮している時は呼吸は浅く早くなり、リラックスしている時は深くゆっくりとなる。

医学的に言うと、呼吸は自律神経を通した心への働きかけが可能と言われている。
吸うときは交換神経が優位になる。そして吐く時は副交感神経が優位になって、体が休憩モードに入りやすくなるようだ。
副交感神経が優位になることで、冷静に自分の内面を見つめることが可能となり、悟りに到達することを促していくわけだね。
このように、呼吸を調整することで心を変化させることも可能となるので、ヨガでは呼吸が重要とされていることが医学的にも納得することができる。

呼吸の仕方

まず気をつけてほしいことは自然なリズムで鼻呼吸をしていくことだ。息をコントロールしようとすると体が緊張してしまうことがあるので、慣れるまではやめておこう。
瞑想を深めていくには以下の2ステップ段階に分けて行なっていく⬇️図4

図4)深い瞑想へは2ステップをふもう

図4)深い瞑想へは2ステップをふもう


まずはステップ1つ目のサマタ瞑想を説明していく。

①鼻先に意識を集中して、ココを通る空気の流れに意識を集中する(サマタ瞑想)

図①に示すように一点に意識を向ける事で、身も心も集中モードに入る準備をしていく。この一点集中型瞑想をサマタ瞑想と呼ぶ。しばらくその状態を続けていき、次のステップ2へと入っていく。

体に取り込んだ空気が全身を巡っていく瞬間を観察する(ヴィパッサナー瞑想)

このステップは鼻先の一点集中から、体全体へと意識を広げていくようなイメージで、体中を巡る空気の一瞬、一瞬を感じるのだ。体内を流れる空気が体内を進んでいく摩擦感やその音、そして体が膨らんでいく圧力などの感覚を観察していくのである。この一瞬、一瞬の観察型瞑想をヴィパッサナー瞑想と呼ぶ。

これらの瞑想を今風に表現すると、空気の流れが鼻ナウ。その流れが肺now。さらに血管ナウnowという風に、その瞬間を観察するnow型瞑想とも言えるかもしれない。

このヴィパッサナー瞑想で深い瞑想状態へと入っていけば良いんだけど、それを妨げるモノが出てくるんだ。それについて次に説明していこう。

瞑想を妨げるモノの出現

しばらく呼吸を続けていくと、たまに雑念がフワふわぁっと雲のように湧いてくることに気付くようになる。これを雑念君としよう⬇️図5

図5)瞑想をジャマする雑念君

図5)瞑想をジャマする雑念君

これは雑念君にジャマされて、悩み、苦しんでいる自分の状態である。
なぜ彼らは湧いてくるのだろうか。それは以下の力を人間は持っているからである。

人間は思考力があるので、過去を振り返り、未来を予想することができる。しかし、この力がマイナスに働くと、先入観や偏見というこだわりが生まれる

つまり、この力がマイナスに働くと、こだわりを持った雑念君が生まれて、悩み苦しんでしまうのである。

この状況をどのようにして乗り越えていくのか、それを次に紹介しよう。

今の瞬間の状態を、心の中で言葉にして絶えず確認すること

簡単に言うと、実況中継である。
例えば、呼吸をしている時は、(息を)スゥ〜、ハク〜、スゥ〜、ハク〜・・・・
っとひたすら今の状態を心で唱えるのである。

すると雑念君が相手にされないことに気付いて、
あきらめて遠くへ消えていくようになるのだ⬇️図6

図6)雑念君が離れる方法

図6)雑念君が離れる方法

このように、今の状態を実況中継することで雑念君達から身を守るように心がけていこう。
しかし、雑念君と自分Aが仲良しであればあるほど、諦めてくれないから、
今度はこの方法を使って行こう

雑念君に対して評価せずに、事実で止まること

例えば、雑念君が湧いてきたら・・・→「フワフワァ」あるいは「雑念・・・」
と今の状態を事実で受け止めるだけにすれば良い。

このように頭の中で言語化することで、雑念君達を手放すことができるようになる。
ココで気付いてほしいことがある。それは自分Aのの真ん中あたりから、フワフワァっと別の何かが生まれていることだ。このモノに気付きながら、ひたすら呼吸に意識を向けていこう。。。

真我の覚醒

呼吸に集中していくと、しだいに意識がどこか違う場所へとただよっていき、ただ呼吸をする自分Aという境地に達していく。

その一方で、額あたりから発生しているモノがだんだんと成長していく様子に気付いてくる⬇️図7

図7)成長していく自分B

図7)成長していく自分B

このモノを自分Bとしておこう。自分Bは瞑想に専念するほど成長していき、やがては目覚め始める⬇️図8

図8)目覚め始める第3眼

図8)目覚め始める第3眼

ココで着目してほしい点は、第3の目(第3眼)が覚ましていることだ。この機能は次の通りである。

第3眼はこの世界を第3者的に観る(ミル)能力を持つとされ、モノの真髄(シンズイ)を観ることができるようになる。この力は対象を客観的に捉えるメタ認知力とも言い換えられる

この真髄を観ることができる自分(我)を前項では真我(シンガ)と呼んでいたことを思い出してほしい。この能力を持つ自分B(真我)は客観視できるメタ認知体であり、観察者というイメージを持つとわかりやすくなる。

それでは、その者の力が発動された瞬間をじっく〜りとご覧あれ⬇️図9

図9)目覚めた第3眼

図9)目覚めた第3眼

着目してほしい点は、第3眼から放たれる閃光が自分Aと重なったことである。
この瞬間、自分Aは真我の力で、深い呼吸から真なる呼吸(真呼吸)へと進化させられたのだ。このように観る対象に真呼吸を引き起こす力も真我は持っているのは面白い点である(真呼吸はオム独自の言葉)

対象の真髄を観る真我は、対象を真呼吸させる力も持つ

では真我になればどんな効果があるのか次に説明していく。
イメージは以下の通りである⬇️図10

図10)客観視する真我

図10)客観視する真我

この図はこだわりを持つ自分Aに対して、真我が客観的に観ている状態である。
この真我になることで以下の効果が発揮される。

真我は観察者なので、自分Aの思考に振り回されることがないから冷静でいられる状態である。それにより、対象の真髄を捉えることが可能だ

一方、自分Aは真呼吸させられており、真我にコントロールされている状態のイメージだ。もちろん思考も制御されている。

では、真呼吸とは何であろうか?それは次の通りである(オム独自の理論)

深呼吸=雑念を手放すために行う呼吸。
真呼吸=雑念を手放した者が行う呼吸

前者の場合は、雑念を手放すために呼吸に専念する必要があるが、後者の場合は呼吸に専念しなくても雑念が湧かないので、呼吸すらも手放した状態であることがポイントである。意識がはっきりしているにも関わらず、雑念が湧かないとはすごい状態である。この状態のことをこう言う⬇️

『無の境地=心が空っぽの状態』 瞑想の目標ね

無の境地に至れば、苦しみから解放されるだけではない。空っぽになった所へ、神々を迎え入れるのである。これによって、神々の力を借りることができて、呪術に応用されていったとオムは思うわけだ。

これまでの内容を整理すると、以下の通りだ。

真我というメタ認知力を持つ観察者を覚醒させれば、雑念を手放すことかできて無の境地に至れる

しかし、瞑想をやり始めの頃は真我になれないという方もいると思うんだけど、難しいから完璧にしようと思わなくてイイと思う。その場合はこのように考えてくれればイイと思う⬇️

真我になったつもりで、自分を観察していこう

このようにイメージしてなりきることはコスプレと同じように、真似たいキャラになるための一歩である。自己暗示をかけるのもイイし、自分のオデコに第3の眼をマジックで描くのもイイと思う。真似る工夫は様々だ。

この真我に対する解釈が各宗教において違いがあるので、経典の内容が多様になっているのである。冒頭にもあげたように、バラモン教では真我をブラフマン(梵)と繋げて、梵我一如を達成させようとしていたことを思い出してほしい。

その他、禅宗(坐禅)、密教(阿字観)などがあるんやけど、その違いを登山に例えると、頂上を悟りと置いて、それまでの道順が異なる。険しい道もあれば、歩きやすい道もあるという風な例え方がされている。

この瞑想を現代風にアレンジしたものをマインドフルネス瞑想と呼び、宗教的な要素を除いた瞑想方法であることを特徴としている。では、宗教的な要素とは何かについて、各宗派別に整理しながら詳細を整理していく。

密教の瞑想方法

特徴

密教はヒンドゥー教(バラモン教の進化系)と仏教が融合した宗教なので、その教えの影響を受けており、次の特徴がある。

梵我一如を果たすべく、自身を仏に変容させるための作法が多い

その作法は、仏さんのモノマネである。仏のポーズをしたり、仏の言葉を唱えたりして仏に近付いていくんだ。
え、仏の言葉って何?って不思議に感じると思うので補足する。

密教経典はサンスクリット語を漢訳して記載されているのだが、解読が難しい箇所はサンスクリット語の音をそのまま漢字で当てられている箇所がある。その内、ご利益がある部分を真言(シンゴン)と呼ばれており、意味は次の通りである。

真言=仏が説く真実の言葉だから、普遍の原理。唱えるだけでもご利益が与えられる

真言の例を以下に示そう⬇️図11

図11)真言の例

図11)真言の例


これらは漢訳するよりサンスクリット語をそのまま発音する方が正しく教えを体得できると言われているので、密教僧は呪文のように唱えるようだ。これまでの内容から、密教の特徴を以下にまとめるとこうなる。

密教の教えは難解な真言を使うので、図などのヴィジュアルやサンスクリット文字の音(真言)がそのまま修行で用いられる

そのような不思議な要素を持つ密教の瞑想を阿字観(アジカン)と呼ぶので、次に説明していく。

阿字観(アジカン)

アジカンの『阿(ア)』は、元はサンスクリット語のアという音に由来している⬇️図12

図12)この文字の発音はア

図12)この文字の発音はア

サンスクリット語を理解するには古代インド文化を知る必要があるので、まとめていく。

密教では、古代インドのサンスクリッド文字を起源とした梵字(ボンジ)が経典に記されている。特に仏の教えと活力があるとされる梵字一文字を種子(シュジ)と言い、音にすれば真言となる

この教えから、種子には仏の力が宿っていることがわかる。それでは、さきほどのサンスクリット語のアはどんな仏さんであろうか?それは以下の通りである。

阿(ア)=密教の中心となる大日如来(ダイニチニョライ)

このことから、阿字の掛け軸を見ながら瞑想を行うことで、大日如来とつながり、その力を頂くことができるわけだね。

では阿字の力はどのようなものであろうか、その一つの例を挙げてみよう。

阿字の掛け軸は『鏡』に相当すると言われている。
自分から見えない物(例;自分の目、自分の後頭部)に対して、鏡を使って見る行為とイメージしてもらえるとわかりやすい。従って、阿字観とは以下のようになる。

阿字というで自身の内面という見えないものを見る行為が阿字観である

ここで気付いてほしいことがある。
鏡には思考はなく、ただ事実を映し出すものであるから、次のような理論が導き出されるのだ。

阿字は真我(メタ認知体)に相当する

これは瞑想の項目にあった真我のことで、客観的にミル存在であったことを思い出してほしい。ウパニシャッド哲学が記載された時代から数百年の月日が流れてはいるが、名称は違えど意味は似ていることは興味深いことである。

次に、呼吸について説明するが、瞑想において重要であることは繰り返すが、阿字観で行う呼吸は単なる呼吸ではない。それは以下の通りである。

阿字観の呼吸は、出入りの息ごとに『阿』を唱えるので、大日如来の力を含んだ『命息(ミョウソク)』と呼ばれている。

この命息と共に、目の前の阿字を脳裏に焼き付けることで、自身を仏に変容させていくのである。

さらには仏と同じ手の形をした印を結ぶなど、仏のモノマネを徹底して行なうのだ。
形を真似て、呼吸と共に阿(ア)を唱えながら、大日如来という仏に成り切るのである。やがては、自分と仏が融合して、自身が今まさに仏に成っていくことを体感する境地にたどり着く。これを即身成仏(ソクシンジョウブツ)と言い、梵我一如のことである。密教の修行をまとめると次の通りになる。

音や図をフル活用して仏のモノマネを徹底して行い、自分こそが大日如来であることを全身全霊で体感していくことが密教の修行である

ここからが悟りについてである。
自分が仏であると知った瞬間、さきほどの自分と仏に成った自分は固定的ではなく、変容する存在であったことに気付くようになる。この存在を『空(クウ)』と言い、実体がなく、変容する対象である。密教では、仏(阿)も変容していくということから、この空のことを『阿字本不生(あじほんぷしょう)』と言い換えられている。

そして自分が仏に成った瞬間、他人も仏に成れることに気付いていき、この世の存在は自分も自分以外も変容していく『空』の存在であることを悟るようになる。これが密教の悟りであろう。大切なことなので、以下にまとめる。

密教はこの世に存在するものすべて(仏も含む)は空(阿字本不生)であることを悟るための教えである。その手段の1つが阿字観という瞑想である

阿字観のやり方

まずは座り方からの説明だが、阿字観は仏のモノマネを徹底して行っていくので、瞑想の基本項目で記載した内容と異なる点が多々あるのだ。その点を補足していく。

密教では仏に成りきる姿勢として、三密(身口意)がある。
『身』は形を真似る、『口』は仏の言葉(真言)を唱える、『意』は心で阿字を描くことを意味する

このことを図示すると以下の通りである⬇️図13

図13)三密ナウ

図13)三密ナウ

①身=目は半眼、手は禅定印(ゼンジョウイン) ②口=息を吐きながらアを唱える(吸う時は心でアを唱える) ③意=心に阿字を描く

これらを補足していこう。
①の半眼だが、仏像をよーく見てみると、目は完全に開いておらず、半分閉じていることがわかる(近くのお寺で実際に見に行ってね)。これは仏の世界と人間界の両方を見ているとされている。禅定印は瞑想中を示す形である。お釈迦さんも禅定印で瞑想していたらしいよ。

②は息を吐く時はアを唱えるが、吸う時は心でアを唱える。
③は心に阿字を描いて、身も心も阿字になりきるのである。

実際にやる上ではこのような掛け軸(満月を背景に蓮華に乗った阿字)を使う⬇️図14

図14)阿字観で使う掛軸

図14)阿字観で使う掛軸

この掛け軸を見ると共に、「阿〜」と唱えながら呼吸をひたすら行なっていくと次のようなことが生じる⬇️

三密をする者に対して、阿字から力が与えられる。これを加持(カジ)という⬇️図15
図15)三密と加持

図15)三密と加持

その力とは一体なんであろうか?
それではもう一度、掛け軸を見てみよう。阿字は金色で描かれており、満月の周囲が少し金色に染まっているように見える。これは阿字には次のような力があることに起因する。

阿(大日如来)は広大な宇宙そのものである。太陽の光のごとく、あまねく衆生(人々)に慈悲を与える力を持つ

補足すると、大日の『日』は太陽のことで、大日如来は太陽の光を超えた智慧の光明を発する如来だ。

この力を踏まえると、掛け軸のデザインは阿によって満月が金色に照らされている状態なのだ。この満月はまさしく自身の心を反映している鏡の役割であり、真我でもある。

瞑想が深まるほど、満月(自身の心)の輝きが増してきて、やがて月の輝きが頂点に達した瞬間はこんな感覚になる⬇️図16

図16)阿字観で悟りに至った状態

図16)阿字観で悟りに至った状態

これは即身成仏に達した瞬間のイメージで、大日如来から発する光によって、自身の心が変容したことがわかる。この状態を以下の言葉でまとめて阿字観の説明を終わることにしよう⬇️

密教は大日如来に象徴される『大宇宙』と微小な存在にすぎない『我』が本質的には同じであることを目指している

禅宗の瞑想方法

特徴

禅宗(主に曹洞宗、臨済宗)における瞑想方法が坐禅であり、仏教の開祖であるお釈迦さんが行なっていた修行の1つである。特徴としては次の通りである。

坐禅を通じて、心のあり方を体得する

これらを一つ一つ補足していこう。
坐禅(ザゼン)の『禅』(ゼン)とはサンスクリッド語のディヤーナが中国で漢訳されて日本に入ってきた文字である。意味は次の通りだ。

ディヤーナ=『心の安定』

ディヤーナの意味から、禅宗とは心の作用を徹底的に探る宗教ということがわかるだろう。他の宗派のように自分の外に神仏を求めたり、呪術的な面がないことがここから区別できる。

では修行方法として坐禅にこだわるのは、何故だろうか?それは理解するにはお経を知る必要がある。

経典はお釈迦さんがいなくなった後に、弟子たちによってまとめられたもので、真の教えではない。弟子によって解釈の違いが異なるし、そもそもお釈迦さんが書いた経典は存在しない

そこで、経典ではなくお釈迦さんが行っていた坐禅からその教えを理解していこうということになったのだ。

では坐禅から何を得ようとしているのであろうか。それは以下の言葉であらわされている。

仏道をならうというは、自己をならうなり。
自己をならうとは、自己をわするるなり。
自己を忘るるというは、万法に証せらるるなり。
万法に証せらるるというは、
自己の身心、および他己の身心をして脱落せしむるなり。

引用元 道元禅師「正法眼蔵」

この内容からすると、
仏教の修行は、まず自分を知ることであると始まり、自分を手放し、身と心を空っぽの状態にするということが悟りの境地であることと言っている。

このことから、禅宗の特徴が見えてくる⬇️

禅宗は神仏がどこか別の世界に存在しているわけではなく、徹底的に自分の内側を見つめていく自力の教えである⬇️図17
 図17)禅宗の教えの特徴

図17)禅宗の教えの特徴

坐禅とは

禅宗における曹洞宗に限っていうと、心も体も楽にしてくれる仏の教えは坐禅と言われている。開祖の道元(ドウゲン)というお坊さんの言葉で言い換えると、『坐禅は安楽の法門』であるとなる。

その教えを具体的にみていこう。

坐禅とは、一切の善悪を思わず、ただひたすら座ることに専念する只管打坐(しかんただ)である。それを続けると、こだわりを捨てた本来の状態にもどり、身心脱落(しんしんだつらく)した無の境地に至る

無の境地は、見るもの聞こえてくるものはあるが、第三者のように感じる状態である。この状態は以下のように言い換えることができる。

無の境地=真我(メタ認知体)と繋がった状態

これは瞑想の基本項目に記載した内容だから、復習しておこう。

では他の宗派と坐禅の違いは何であろうか?このことについて次に深く見ていく。

禅宗と他宗派の違い

禅宗→自力で悟りに至る教え 他宗派→宇宙(神仏)の力で悟りに至る教え

それでは一つ一つ見ていこう。
禅宗の悟りは身心脱落した無の境地であったが、他の宗派では、梵我一如即身成仏という状態に相当するだろう。
これらの字をよーく見てみよう。禅宗の場合は、神仏の文字がふくまれていないことがわかる。禅宗は他の宗派よりも、神仏と一体になるよりも、自分を徹底的に客観視することに専念していたと推定される。これがマインドフルネスと共通するポイントである。

詳しく言うと、仏という架空の存在は外にはなく、人間にはお釈迦さんのような慈悲心知恵が本来備わっている教えなので、それを見つけるために自力身心脱落を目指していこう⬇️図18

図18)坐禅で悟りに至る過程

図18)坐禅で悟りに至る過程

坐禅のやり方

瞑想の基本項目と異なる点を補足していく。

坐禅は、目を半分閉じて、手は禅定印を組んだ状態にして、ただひたすら呼吸に意識を向けながら、何も考えずにその状態を続けていく⬇️図19
図19)坐禅の姿勢

図19)坐禅の姿勢

頭上にのマークがあるが、これは頭の中が空っぽの状態を示している。仏になろうとも思わない、今の一瞬一瞬を五感で感じていく状態である。

さらに目線は約45度斜め下の床を眺めるようにする⬇️図20

図20)目線は下へ

図20)目線は下へ

何度も繰り返すが、途中、雑念が湧いたら、次のことに意識を向けていこう。

意識を呼吸に向けて、スゥー、ハクゥーと頭の中で実況中継する

ここは瞑想の基本項目と同じである。

やがては呼吸を意識しなくても雑念が湧かない状態になれば、心が空っぽの状態になってきた証拠である。これは深呼吸、いや真呼吸の状態であったことを思い出そう。この状態になれば真我と繋がっていると考えて良いだろう。

マインドフルネス

特徴

マインドフルネス(mindfulness)という言葉は、古代インドのサンスクリット語のサティ(sati)という言葉の英語訳としてあてられたもので、「気づき」と定義される

これをふまえてマインドフルネス瞑想を説明すると、心を今という瞬間につねに注意を向け、自分が感じている感覚や感情、思考を冷静に観察していく。そうすることにより、ふだん気付いていない心の状態に気付くことができるようになる。

繰り返しにはなるが、ヨガの修行方法である瞑想のエッセンスを科学的に解明することができたので、現代において宗教家以外にも瞑想を活用できる価値が生まれたのだ。
そのエッセンスとは、雑念を手放して、今の状態を真我(瞑想の基本を参照)で客観的に観察していく点である。そして、ここで重要なことがあるので覚えておいてほしい⬇️

マインドフルネス瞑想には宇宙・神・仏が介在していないので、別世界に入ったり、呪術を行うことを目指してはいない

この点がマインドフルネスと坐禅の違いがあいまいになってしまう理由で、世界各国でその違いを区別しようと各専門家によって議論されているのである。

ではマインドフルネス瞑想では何を悟りとするのか?
それについて具体的に見ていこう。

マインドフルネスで鍛えられる力

今の状態を真我で観察をすることで気付く力が鍛えられる

このようにマインドフルネス瞑想をすることでふだん意識していない自分の心の状態に気付く力が養われるのだ。その力を日常や能力開発に活かすことがマインドフルネス瞑想の効果である。その効果について、次に詳しく見ていく。

①イライラからの解放
例えば、イライラ系の雑念君が来たら、「あー自分はイライラしているわぁ」って気付くことができるわけである。
さらに瞑想を深めていくと、「あーイライラしている自分Aがいるなぁ」っという感覚になり、自分Aを客観的に見るもう1人の自分B(真我(シンガ))が生まれてくる。
ココでポイントとなる点を次にあげていく。

第三者目線で捉えている真我は冷静な存在である。真我になれば自分Aのイライラを遠くから眺めることができるようになる

この原理によってストレスを受けた心の状態を冷静に見つめることができて、イライラから解放されることにつながるわけだ。

気付く力が向上すれば、自分がふだんやらないような行動をしている事に気付いて、ストレスが溜まっている心の状態がわかる。これによって今日は早く寝ようかとかストレスが蓄積している自分に対処することができるわけだね。

②分析力の向上

真我は物事を客観的に捉えることができるので、
今起きている課題に対して、真の原因を捉えることが可能となる

これは問題解決に活かすケースで、世の中の問題に対して私的な感情が入ったりして、的外れな対策をするケースが多い。そこで真我によって客観視することで、真の原因を捉えられるようになるのだ。

時代の流れから瞑想を解析

瞑想について、インダス文明まで遡り分析を行なってきたが、なぜ宗派によって瞑想の方法が変化したのであろうか?
それを社会的に解き明かしていくため、再び古代から見ていこう。

(紀元前〜9世紀)バラモン教、密教
この時代は、ウパニシャッド古典や仏教経典の理論を理解できる力がある人に対して宗教の教えが広まっていた。
具体的にバラモン教では司祭者、密教では出家者であったので、生活にゆとりのある人が宗教の理論を学べる時代であった。
この当時の教えは、宇宙、神仏の力を借りて悟りを目指すことが特徴であった。

(13世紀〜現代)禅宗、マインドフルネス
鎌倉時代以降は武士や庶民に対しても教育が広まっていき、宗教の教えを理解できる人が増えていく傾向であった。
この時代は禅宗など、自力で悟りを目指す宗教が広まっていく時代である。

この流れを見ると、仏教が一般庶民にも普及すること(つまり教育が普及すること)と共に、他力から自力へと悟りを開く方法が変化しているように思えてくる。

教育が庶民に行き届くことは、国が庶民に目を向けるほど余裕があり、安定しているということが考えられる。ただし、教育が大事ということをココで言いたいわけではない。重要な点はここからである。

安定した社会になればなるほど、神仏性が薄まるという点

この点が瞑想における悟りの違いに深く関わっているのだ。現代は高校までは義務教育なので、誰でも教育が受けれる日本社会である。だからこそ、現代は神頼みせずに、自力で悟りを得ようとする坐禅やマインドフルネス瞑想が流行する一つの理由とも考えられる。

まとめ

・脳の背内側前頭前野には、メタ認知と呼ばれる自分を客観視する領域がある

・真我
対象の真髄を観るメタ認知体のこと

・瞑想の目標
真我を覚醒させることで客観視して、心を空っぽの状態にすること

・真我になるのが難しい場合
自分が真我になったつもりで、客観視をしていこう。(自分は真我だと自己暗示をかけるのも良い)

・宗教の瞑想は梵我一如を目指している
その目的は2点である⬇️

①苦しみの世界から別世界へ脱出する
②呪術の達成

・バラモン教(ヨガ)・密教(阿字観)の特徴
宇宙、神仏の力を借りて悟りを目指す特徴がある。瞑想では音や図などで五感を刺激する要素が強い。

・禅宗(坐禅)、マインドフルネスの特徴
自力で悟りを目指す特徴がある。
仏になろうとも思わないが何を悟りにするかというと、苦しまずにこの世を生きる知恵(仏教的には智慧という)を見つける方法なのかもしれない。

さらにこれらを区別すると以下となる。

坐禅の特徴は身心脱落して、内に備わっている慈悲心・智慧を見つけて、日常を生きる。

マインドフルネスの特徴は身心脱落せずに、気付く力を鍛えて、仕事や日常に活かす。

・なぜ瞑想の方法が違うのか?
安定した社会になればなるほど、神頼みする人が少なくなり、自力で悟りを得ようとする傾向が考えられる。

・仏教では真我を以下のような詩で表現されている。それを紹介して、このテーマの幕を閉じよう。

雲晴れて後の光と思うなよ
もとより空に有明の月

私たちの心は満月のように輝いている。
たとえ妄想(雑念)の雲に覆われていても、その向こうに満月(真我)があることは変わりない。